優秀賞受賞作品⑦
日々がリベンジのチャンス
                          豊間根冬美
 

 高校3年生の冬だった。私は、センター試験で大失敗をしてしまい、願い叶わず第一志望の大学を逃してしまった。と同時に、浪人することが決まってしまった。

 1年間、ただひたすらに勉強をする。浪人生という、社会人とも学生ともいまいち言い難い立ち位置になってしまった。私が通っていた予備校には、寮がある。勉強に集中するために、私は寮に住むことを選んだ。予備校からは目と鼻の距離、これなら勉強に集中できるだろう。寮の自室にあるのは風呂、ベッド、机。それ以外はないので、必要なら自分で持ち込む。私は、お気に入りのCDプレーヤーと何故か炊飯器を持ち込んだ。食事付きなのに何故だろう、と未だに思う。しかし、これが後になって奏功する。
 さて、4月。浪人生活が始まる。私が特に不得意としているのは理系の科目だ。しかし、受験する大学は理系の学部。センター試験でしくじったのも、理系の科目ばかりだった。「リケジョ」にならなければ、合格は程遠く、雲を掴むような、非現実的なものになってしまう。しっかり勉強しなければ、と真面目に勉強をしていた。

 私は、田舎出身だ。予備校は都心部にある。都会には、誘惑が多い。何と言っても、予備校のすぐ目の前にゲームセンターがある。私と同じ予備校で浪人していた高校時代の同級生は、そのゲームセンターで競馬のゲームにハマり、自分の成績ではなく馬の成績を伸ばしていた。何とも矛盾した話だ。5月、6月と月日は過ぎる。都会の誘惑に負けそうになりながら、勉強は続けていた。この頃になると、寮の寮生とも顔見知りになる。挨拶程度の人もいれば、一言、二言、話をするような間柄の人もできた。寮は、男女別の建物だが食堂だけは男女共用だった。浪人当初は、1人でご飯を食べていた。いわゆる「ぼっち飯」とでも言うのだろうか。友達なんかいらない、勉強に集中しなきゃ、そんな風に思っていた。
 
 しかし、月日が経ち、顔見知りの人が増え、食事の時間が被ったりすると食事を共にして、授業の振り返りや志望校の話などをするようになった。「ぼっち飯」ではなく、誰かと共にする食事もいいなと思うようになった。私は、誰とでも仲良くなれるタイプの人間で、あまり男女も関係なく、また分け隔てもするタイプではなかったので、割と多くの寮生と顔見知りだったし、そこそこ仲の良い寮生もちらほらといた。時間があれば、志望校の話や勉強の話など、情報交換をした。食事の時間は、私にとって大切な時間だった。

  予備校の寮には当然だが多種多様な人がいる。私のように一浪目の人もいれば、二浪、三浪、中には十浪という猛者もいた。そのくらいのレベルになると、派閥のような、リーダーとその取り巻き、といったグループもいくつかあったように思う。リーダーは、たいていは多浪の浪人生で、取り巻きは一浪、二浪くらいの「若手」だ。

そんなところで、夏がやってくる。勝負の夏だ。ここで成績をぐっと伸ばしたい。
 
 私が苦手とする理系科目は、じわじわとではあるが、成績は上がっていた。模試の成績も、全体的な底上げをして、割と順調に上がっていたように思う。このままうまく成績を上げられれば、第一志望が見えてくる。

  そのようなところで、「希望」を持って勉強に取り組んでいた。勝負の夏が過ぎ、秋になる。この頃には、かなり仲良しな寮生もいたり、グループで食事をしたりと、割と楽しく浪人生ライフを送っていたように思う。成績も順調、友達もできた。順風満帆だ。そう思っていた。

  しかし、事件が起きたのはその秋だった。
 
 その様子を見ていた多浪生率いるグループが、よく思わなかったのだろう。私の個人情報が、今で言うところのSNSに晒されてしまった。出身高校や写真、とにかくそれを見れば個人が特定できるような情報がいくつも羅列されていた。私がそれを知ったのは、同じ寮の寮生から教えてもらったからだ。個人が特定できるだけでなく、「ブス」「デブ」、差別用語のようなもので誹謗中傷するような言葉も混じっていた。今でこそ、犯人が特定できるが当時は特定できず、「今、こうしてご飯を食べているこの人が犯人かも」「いや、あの人かも」「もしかして、隣の部屋の…」等々、人という人がとにかく信用できなくなった。
 
 自分が仲良くしている人を信じられなくなることほど、つらいことはない。友達だと思っていたのに。でも信じられない。私は、人という人が皆、怖くなってしまい、寮の自室から出られなくなってしまった。もちろん食堂には行けない。しばらく、食事もできなくなった。勉強も手に付かなくなった。SNSは「あいつ最近見ないな」「ざまぁ」「特定した」「志望校落ちろ」「志望校落ちるに十万賭けてもいい」等々、多少の盛り上がりを見せている。見なければいいのに、つい気になって見てしまう。早く収まって欲しい、ただ願っていた。空気になりたい。そう思った。
 
 しばらくご飯も食べられなかったが、お腹は空くようになった。でも、食堂には行けないままだ。人に会うのが怖かった。そこで、冒頭に登場した炊飯器の出番だ。

  炊飯器で、ご飯を炊いて、ご飯だけ食べた。ふりかけをかけたり、塩をかけたりしながらも、しばらくはご飯だけで過ごした。お腹に物が入って、お腹が一杯になると、人は力がみなぎるのだろうか。どん底に落ちた時から一、二ヶ月。やっと心に力がみなぎって、「こんな奴らに負けてられるか」と思った。悲しみが、怒りに変わり、「絶対負けない」という気持ちに変わった。
 
 次の日から、久しぶりに予備校に行った。
 
 特定するならすればいい、勝手にしろ、と思った。そんなものに負けるほど、私の志望校に対する想いは弱くはない。とはいえ、一、二ヶ月はかなり勉強量が落ちてしまって、厳しい状況だった。勝負の冬を迎えようとしていた。冬期講習に、必死に食らいつく。私をバカにしている奴らは、きっと、私が志望校に落ちて落ち込んでいる様を見て喜ぶことだろう。でも、そんなことは絶対にさせない。

  私を突き動かしていたのは、怒りや、反骨心だった。ただ、一生懸命に勉強した。負けたくないと、その一心だった。あれほどに遠ざけていた食堂にも顔を出して、食堂のおばちゃんと世間話ができるくらいにはなった。

  ご飯を流し込んで、勉強。朝ご飯食べたら授業。私は負けない。私には、夢があった。人の役に立ちたいと、人を救う仕事がしたい、と大学に行くことを決めた。そんな夢を、訳のわからない誹謗中傷なんかで壊されてたまるか。毎日、志望校を見ては闘志に燃え、自分がしたい仕事をしている人を見ては、私もああなりたい、と気持ちを新たにした。
 
 負けたくない、その一心で勝負の冬は終わった。そして、迎えたセンター試験。現役時代にしくじった理系科目もなかなかの成績。二次試験に、何とか望みを繋げることができた。二次試験に向けて、また勉強を始める。

 この頃から、食堂で例の多浪生グループがこちらを見てヘラヘラと噂話をしているのが聞こえるようになった。おそらく、犯人はあいつらだ。SNSでは、「またあいつ現れたなw」「消えればいいのに」等々、また誹謗中傷が始まっていた。もはや、悲しみより怒りが先行していた。いい加減にしろ、と思いつつも私の気持ちは二次試験に向いていた。

 二次試験も終わり、合格発表の日。
 番号を探す。手が震える。心臓が飛び出しそうになる。
 自分の番号を見返す。必死に探す。あった。
 私の番号が、そこにあった。
 泣いた。大泣きした。合格した安心感、友を信じられなくなってしまった悲しみ、奴らに対する怒り、悔しさ。いろんな気持ちが、全部溢れ出てきた。

 無事合格して、私は寮を出た。例の多浪生達ともおさらばだ。
 そして、私は大学を卒業して、憧れていた仕事をしている。

 人を救い、寄り添うには、共感できる力が必要だ。いろんな悲しみや怒り、苦しみ、つらいことを知っている人間は、思考が豊かだと私は思っている。

  SNSでの誹謗中傷は、私にとってとてもつらく、悲しく、悔しく、またとても怒りが溢れるものだった。たくさん傷付いた。直接顔を見ることなく、気軽に文字で誰かを傷付けてしまう。顔が見えない分、余計に人間不信になってしまう。
私は、友達すらも信用できなくなってしまった。友達を信用できなくなってしまった自分に、自己嫌悪を感じた。
SNSによる誹謗中傷の怖さは、そのようなところにあると思う。

  いじめに悩んでいる人に伝えたい。
 
「希望」を持ってほしい。「夢」を持ってほしい。つらい時こそ、「こうなりたい」と先の自分を想像してほしい。そんな余裕、もちろんないと思う。
でも、少しでも希望や夢があれば、それは絶対に助けになってくれると私は信じている。
「希望」って何だと思ったら、「ショーシャンクの空に」という映画を見てほしい。
どんな状況下においても、希望や夢があれば、人はそれを打ち壊すくらいの強さを持っていると思う。
 私がSNSでの誹謗中傷を克服できたのは、この「希望」と「夢」があったからだ。

 悲しい、苦しい、つらい、悔しい。いろんなネガティブな感情に苛まれた。

 しかしながら、それ以上に、私が持っていた「希望」や「夢」の持つパワーが上回った結果なのだろうと思う。ほんの少しでもいい、希望と夢を持ってほしい。そして、できるなら誰かにSOSを出してほしい。

  正直なところ、私は誰にも相談できなかった。誰も信じられなくなって、一人で抱え込んでしまった。寮のベランダから、外をぼーっと眺めていた日もあった。もし、あの時、誰かに助けを求めることができていたなら、もう少し何か変わっていたのかもしれない。

 希望や夢を持てずに「負けて」しまうなら、いじめていた人たちをせせら笑えるくらいに、「勝って」ほしい。死ななければオッケー、長い人生の道のりは、いくらでもやり直せると私は信じている。



前ページへ戻る